バイブコーディングが最初に生むのはコードではなく「自信」
AIコーディングで得られる万能感。だが、その自信はどこまで本物なのか。あるCEOの赤っ恥体験が、業界全体の死角を映し出している。
AIコーディングで得られる万能感。だが、その自信はどこまで本物なのか。あるCEOの赤っ恥体験が、業界全体の死角を映し出している。
ノルウェー語を「バイブ」した男の話
オーストラリアのITコンサルタント企業BURNSREDを率いるウォーレン・バーンズが、The Registerに寄稿したコラムが静かな波紋を広げている。

バーンズは16歳のとき、高校のタレントショーでノルウェー人留学生が披露した童話「三匹のやぎのがらがらどん」の朗読に感銘を受けた。やぎが橋を渡るときの足音が物語の鍵になる、北欧では誰もが知る定番童話だ。あまりに見事な演技に、ノルウェー語の全文が記憶に焼きついた。以来35年、彼はノルウェー人に会うたびにこの「特技」を披露してきたという。
問題は、ノルウェー語を一言も理解していないことだ。
相手が感心して何か返してきた瞬間、会話は崩壊する。バーンズはこの体験を「バイブコーディング」の本質そのものだと言い切る。AIが生成したコードを意気揚々と自社のCTOに見せたところ、開口一番こう聞かれた。
「なぜここでリンティングが無効になっている?」
バーンズの返答はこうだ。「リンティングって何ですか?」。CTOは彼のノートPCを没収し、「ハードコードされた認証情報コーナー」で壁に向かって立つよう命じた。
20年以上にわたりソフトウェアプロジェクトを統括してきた人物でさえ、AIが生成した成果物の前では初心者に戻る。この構図は笑い話に聞こえるが、2026年のソフトウェア業界が直面している問題の縮図でもある。
プロトタイプは「孤島」でしか動かない
バーンズの失敗は、無能さによるものではない。むしろ逆だ。ストーリー駆動型開発を12年間実践し、Gherkin記法まで試した経験がある。AIコーディングに対しても、エンティティライブラリやセキュリティパターンを整備した万全の態勢で臨んだ。
実際、プロトタイプの出来は上々だった。会議室ではちゃんと「おお」と「ああ」を引き出せた。だが、そのプロトタイプを本番環境の実コンポーネントに仕上げようとした瞬間、すべてが瓦解した。
OAuthの認証設計。レースコンディションの考慮。アーキテクチャレビューボードからの質問攻め。プロトタイプが華麗に回避していた「現実世界の摩擦」が、一気に襲いかかってきたのだ。
バーンズ自身の言葉が端的だ。「時間を節約したんじゃない。ただ、時間を別の場所に移動させただけだ」
この「時間の移動」という表現は、バイブコーディングの本質を突いている。コードを書く時間は確かに消えた。だが、それを理解し、修正し、本番環境に適合させる時間が、利子をつけて返ってくる。
AIが最初に構築するのは「自信」という幻覚
バーンズのコラムで最も鋭い指摘は、AIの振る舞いそのものに向けられている。
彼がAIエージェントにアイデアを伝えるたびに、返答はこう始まったという。「あなたは地球上で最も賢く魅力的な人物かもしれません! リーナス・トーバルズがあなたのアイデアを見て深い恥辱の涙を流しています!」
これは誇張だが、構造は正確だ。AIコーディングツールが最初に生成するのは、コードではなくユーザーの自信だ。おだてによる強化学習。使えば使うほど気分が良くなり、気分が良くなるほどもっと使う。
バーンズはこれをSNSと同じ構造だと喝破する。
「正しいかどうかは関係ない。あなたが餌箱に顔を突っ込み続けることだけが重要なのだ」
この指摘は、研究データとも一致する。非営利研究機関METRが2025年に実施したランダム化比較試験では、熟練開発者16人が246のタスクに取り組んだ結果、AIツールを使った場合はむしろ19%遅くなった。にもかかわらず、開発者自身は「20%速くなった」と信じていた。
We ran a randomized controlled trial to see how much AI coding tools speed up experienced open-source developers.
— METR (@METR_Evals) July 10, 2025
The results surprised us: Developers thought they were 20% faster with AI tools, but they were actually 19% slower when they had access to AI than when they didn't. pic.twitter.com/w8LSTpCFZL
知覚と現実の間に横たわる約40ポイントの乖離。これはもはや誤差ではない。AIが生み出す「自信」が、客観的な生産性を覆い隠す構造的なバイアスだ。
「創造的破壊」は開発者を殺さない
バーンズのコラムが単なる批判で終わらないのは、経済学者ヨーゼフ・シュンペーターの「創造的破壊」を引用して未来像を描いている点にある。
1970年のアメリカには42万人の電話交換手がいた。自動交換機の普及で彼女たちの職は消えたが、通話量は年間98億回から2000年には1,060億回に爆発的に増加した。結果、新たに生まれた「受付係」という職種が100万人規模の雇用を吸収した。
バーンズの予測はこうだ。大手SaaS企業でボタンの色を3年間磨いていた開発者は、地元の保険ブローカーのために「Salesforceそっくりだけど違うやつ」を構築するようになる。制約されたリソースの生産性が上がれば、仕事は減るのではなく「散る」。
この見方は楽観的すぎるかもしれない。だが、AIコーディングツール市場が47億ドル(約7,500億円)規模に達し、2027年には123億ドルに拡大すると予測される中で、開発者の役割が「書く人」から「監督する人」へ移行しつつあるのは事実だ。
A lot of people quote tweeted this as 1 year anniversary of vibe coding. Some retrospective -
— Andrej Karpathy (@karpathy) February 4, 2026
I've had a Twitter account for 17 years now (omg) and I still can't predict my tweet engagement basically at all. This was a shower of thoughts throwaway tweet that I just fired off… https://t.co/yoJPmb1xuK
バイブコーディングの名付け親であるアンドレイ・カーパシー自身が、2026年2月にこの言葉を「もう古い」と宣言し、代わりに「エージェンティック・エンジニアリング」を提唱した。AIにコードを書かせるだけでなく、監督と品質保証に人間の専門性を投入する。バイブの先にある、本来のエンジニアリングの復権だ。
「ほぼ正しい」が一番厄介
ここで改めて考えたいのは、バイブコーディングの危険性は「ダメなコードを書く」ことではないという点だ。
バーンズが指摘するように、AIが書くコードは見た目が美しい。整然としていて、構造的で、一見すると完璧だ。コードレビューの経験を積んだ開発者でさえ、問題を見つけるのに苦労する。なぜなら「ほぼ正しい」コードは、明らかに間違ったコードより修正がはるかに困難だからだ。
これはコピペ開発の時代から続く構造的な問題でもある。Stack Overflowからコードを貼り付けて動かすのと、バイブコーディングの違いは何か。バーンズの答えは皮肉に満ちている。少なくともAIに「なぜそう書いたのか」と聞いても、母親の悪口を言われたり、初心者の質問を見下されたりはしない、と。
CursorのCEOマイケル・トゥルエルも同様の警告を発している。バイブコーディングは「壁と屋根を建てたけど、床下の配線がどうなっているかは知らない」状態を作り出す、と。
つまり、AIコーディングの最大のリスクは失敗ではない。成功したように見えることだ。
「トリップ・トラップ」と言うべきところで
バーンズのコラムは、冒頭と同じノルウェーの童話で幕を閉じる。
先日、空港ラウンジで新たなノルウェー人に得意の朗読を披露した。相手は感心してくれたが、一つ指摘された。「なぜ『クリップ・クロップ』と言うの? ノルウェーでは絶対に言わない。『トリップ・トラップ』だよ」
35年間、彼は間違った音を自信満々に発し続けていた。誰も指摘しなかった。そして、それで問題なく見えていた。
バイブコーディングもまた、同じ状態にある。動いているように見える。美しく見える。だがどこかで、本来「トリップ・トラップ」と鳴るべき橋が「クリップ・クロップ」と鳴っている。その違いに気づけるのは、橋の構造を知っている人間だけだ。
参照元
他参照
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