NHS職員がPalantir拒否──医療データの信頼崩壊
数千万人の医療データを託された企業に、現場が「NO」を突きつけ始めた。契約解除の選択肢が浮上するなか、問われているのはテクノロジーの性能ではない。
数千万人の医療データを託された企業に、現場が「NO」を突きつけ始めた。契約解除の選択肢が浮上するなか、問われているのはテクノロジーの性能ではない。
「ログインするたびに気分が悪くなる」
イギリスの国民保健サービス(NHS)で、異例の事態が進行している。米データ分析企業Palantir Technologiesが構築したFDP(Federated Data Platform、統合データプラットフォーム)を、現場の職員たちが使用拒否しているのだ。
Financial Timesが4月2日に報じた内容によれば、臨床職・非臨床職を問わず複数のNHS職員が、FDPの利用をボイコットしていると証言した。ある上級職員はPalantirを「倫理的に破綻している」と表現し、同僚たちがシステム使用を強いられた際に意図的に作業ペースを落としていると明かした。
別の職員はこう述べている。「ログインするたびに気分が悪くなる。そう感じているのは自分だけではない」。
FDPはNHS内の分散したシステムを統合し、待機患者リストの解消や資源配分の効率化を目指すプラットフォームだ。2023年に7年間・最大3億3,000万ポンド(約693億円)の契約でPalantirに発注された。
これは単なる「使いにくいソフトへの不満」ではない。技術の問題ではなく、信頼の問題だ。
拒否の根にあるもの──ICE、軍事、監視
職員たちの抵抗には、明確な理由がある。Palantirは米国の情報機関・軍事機関との深い関係で知られる企業だ。
とりわけトランプ政権下でのICE(移民・関税執行局)への監視ソフトウェア提供が、英国の医療従事者に大きな衝撃を与えた。
2026年2月、英国最大の医師組合であるBMA(英国医師会)が、ICEとの関係を理由にFDPの使用制限を医師に呼びかけた。アムネスティ・インターナショナルも3月にMedactの報告書を支持し、PalantirがNHSのパートナーとして不適切だとする声明を出している。
https://x.com/EdwardJDavey/status/2038662603065426179
自由民主党のエド・デイヴィー党首は「トランプのお気に入り巨大テック企業をNHSから追い出すべきだ」とXに投稿した。この問題は左派だけの懸案ではなく、与野党を横断する政治的争点になりつつある。
Good Law Projectの「Say No to Palantir」キャンペーンを通じ、5万人以上の患者が地元のNHSトラストに「Palantirのシステムを導入しないで」と請願を送っている。
数字が語るもの──導入は進んでも、信頼は追いつかない
Palantir側はFDPの成果を強調する。11万件の追加手術を実現し、退院遅延を15%削減、80万人近くを待機リストから除外したと主張している。財務省の監査機関Nistaもプロジェクトに「最高評価」を与えた。
だが、その数字の裏側を覗くと景色は一変する。イングランドの205のNHSトラストのうち、FDPを導入しているのは123。そのなかで実際に「効果を報告している」のは2026年2月末時点で80トラストのみ。導入トラストの3分の1以上が、効果を実感できていない計算だ。
大規模かつデジタル化の進んだ病院からは「我々は10年前からこれをやっている」という冷めた反応が出ており、Leeds Teaching Hospitals NHS Trustは情報公開請求への回答で「FDPを採用すれば機能が後退する」と明言した。
膨らむコストと不透明な契約
契約額は3億3,000万ポンドだが、話はそこで終わらない。Nistaの年次報告書によれば、プログラム全体の生涯コストは10億ポンド(約2,100億円)を超える見込みだ。
各トラストの「隠れた導入コスト」も膨らんでいる。Imperial College NHS Trustは導入だけで約50万ポンドの自己負担を強いられ、Northumbria Healthcare NHS Foundation Trustも追加で41万2,500ポンドをPalantirに支払った。
そもそも、この契約がどう結ばれたのかすら、十分に説明されていない。
当初の契約書は586ページのうち4分の3が黒塗りで公開された。Good Law Projectはこの不透明さを巡り法的措置を起こしている。
政府はブレーク条項を検討──だが足元では拡大が続く
英政府は現在、契約のブレーク条項(中途解約条項)の発動について法的助言を求めている段階にある。ある政府高官はFinancial Timesに対し「やろうと思えばできる」と述べ、技術的にはFDPを別の事業者に移管可能だとの見解を示した。
しかし、政治的なジェスチャーと現実は乖離している。科学担当大臣のパトリック・ヴァランス卿は議会で「今後は英国企業を優先する」と明言したが、その一方で2026年に入ってからもPalantirの英国政府内でのプレゼンスは拡大の一途をたどっている。
国防省は2025年12月に競争入札なしで2億4,000万ポンド(約504億円)のデータ分析契約を締結。金融行動監視機構(FCA)も3月に3カ月の試験契約を結び、金融犯罪対策のデータ分析にPalantirを起用した。
Palantir英国副会長のルイス・モズリーは批判者たちを「イデオロギーに突き動かされた活動家」と呼んだが、下院科学・イノベーション・技術委員会のチ・オンウラ委員長はこれを即座に否定。「問題は契約の透明性、ベンダーロックイン、データセキュリティだ」と述べた。
「土地を取り、広げる」──Palantirの戦略が映すもの
Palantirの手法は「ランド・アンド・エクスパンド」(上陸して拡大する)と評される。2020年のコロナ禍でわずか1ポンドの契約でNHSに入り込み、2023年に3億3,000万ポンドの本契約を獲得。その後、警察、国防省、そしてFCAへと広がった。
調査報道サイトThe Nerveによれば、少なくとも10の政府部門にまたがる34件以上の契約が確認されており、総額は6億7,000万ポンド(約1,407億円)以上に上る。
ブレーク条項の検討期限は2027年2月。しかしその前に、Imperial College Projectsによる独立評価が最大3年かけて行われる予定であり、評価結果を待たずに解約するのか、それとも実績を見極めるのかという判断を政府は迫られている。
NHSの職員たちが静かにタブを閉じ続けるなか、問われているのは一つのソフトウェアの性能ではない。国民の医療データを誰に託すのか──その答えを、英国はまだ見つけていない。
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