月1000ドルを18ヶ月、アーティストは何を選んだか

月1000ドルを18ヶ月、アーティストは何を選んだか

AIが創作の仕事を侵食する時代、ニューヨーク州の2400人のアーティストに月1000ドルが無条件で配られた。労働意欲は消えなかった。彼らは仕事の中身を入れ替えた。


創作で食えない時代に、現金が降ってきた

画像生成AIが広告写真の仕事を奪い、ChatGPTが副業のテクニカルライティングを置き換えていく。AIの登場で、創作で生計を立てる人たちの収入基盤が揺らいでいる。

そんな状況下で、ニューヨーク州で米国史上最大の規模となるアーティスト向けベーシックインカム実験が行われた。2022年6月から18ヶ月間、選ばれた2400人のアーティストに毎月1000ドル(約15万7000円)が振り込まれた。労働義務はなし。使い道の制限もなし。

主導したのは非営利団体クリエイティブズ・リビルド・ニューヨーク(Creatives Rebuild New York)、主な資金提供はアンドリュー・W・メロン財団。応募者は約2万2000人、加重抽選で2400人が選ばれた。プログラムの狙いは、アーティストの財務的安定を支えると同時に、「アーティストも安定収入と社会的支援に値する労働者だ」という認識を社会に広げることだった。

この実験を独立評価したのが、インディアナ大学の研究チームだ。論文はJournal of Cultural Economicsに近日掲載予定で、研究チーム自らがThe Conversationに結果を寄稿した。

主な発見は、シンプルで意外性のあるものだった。アーティストは働くのをやめなかった。仕事の種類を入れ替えただけだった。


「働く意欲が消える」予言は外れた

ベーシックインカム批判で最もよく聞かれるのが、「現金を配ったら誰も働かなくなる」という主張だ。今回の結果は、その予言を真正面から外している。

研究チームは支給を受けたアーティストと、応募したが選ばれなかったアーティストを比較した。アーティストたちは自らの時間を「芸術・文化的実践」「その他の芸術関連業務」「芸術以外の仕事」の3つに分類して報告した。

結果、支給を受けたアーティストは芸術関連業務に週3.9時間多くを費やし、芸術以外の仕事は週2.4時間少なくなった。失われたのはレジャー時間ではなく、生活費を稼ぐためのサイドジョブだった。

「現金が増えれば収入が増える」のではなく、「現金が増えれば時間の使い方を選べるようになる」。研究チームは結果をそう表現している。
受給アーティストの週あたり労働時間の変化
増加 減少
※ 出典:Woronkowicz, J. & Noonan, D., Journal of Cultural Economics(近日掲載予定)。Creatives Rebuild New York「Guaranteed Income for Artists」プログラム参加2400人と非選出応募者の比較分析より。

経済学では古くから、アーティストの行動は標準的なモデルから外れることが知られている。普通の労働者は高い賃金を選ぶと仮定されるが、アーティストは収入が乏しくても創作を続ける傾向がある。これは「ワーク・プリファレンス・モデル(work-preference model)」(仕事自体への選好モデル)と呼ばれてきた。

つまり、アーティストにとって仕事の価値は給料だけでは測れない。今回の結果は、その古典的なモデルとほぼ一致した。現金は労働意欲を奪わず、むしろ「やりたかった仕事」へ時間を移した。


収入は増えなかったという不都合な事実

ただし、話はそこで終わらない。

支給を受けたアーティストは、芸術以外の収入が大きく減った。サイドジョブを減らしたのだから当然だ。しかし注目すべきは、すべての仕事からの総収入も年平均で約1万1600ドル(約182万円)減ったことだ。これは年間支給額1万2000ドル(約188万円)とほぼ同じ水準である。

数字だけ見れば「支給で増えた分が、別の収入減で相殺された」ように見える。月1000ドルもらった分、別のところでちょうど同じだけ稼がなくなったわけだ。

年間支給額と総収入減少の関係
年間支給額 $12,000 月1000ドル×12
総収入の減少 −$11,600 非受給群との比較
差し引きの増分 +$400 実質的な収入増
支給 収入減 = 差し引き
※ 数値は年平均。総収入減は非受給群との対照比較から推定された値で、確定値ではない。アーティストの収入は本来振れ幅が大きく、研究チームも「総収入を減らした」とは断定していない。

しかし研究チームは、この数字を断定的には扱わない。アーティストの収入は元々振れ幅が大きいからだ。私には、ここが研究の誠実さを示す部分に思える。委託契約一つ、キャンセル一件で年収が大きく動く業界で、「現金支給が総収入を減らした」と言い切るのは難しい。

つまり今回の発見は、「現金を渡せば収入が増える」という単純な話ではない。むしろ、こう言える。

現金は、収入の総量ではなく、時間の使い方を変えた。

「もっと稼げる」というよりも、「時間の使い方を選べる」という効果だった。これは政策効果として見たとき、まったく違う意味を持つ。


AIの時代に、この結果は何を意味するか

研究チームは慎重に注釈をつけている。今回の発見は、すべての人に当てはまるものではない。アーティストは特殊な集団だ。報酬が乏しくても創作を続ける動機を持つ人が多い。また、研究は新型コロナの後、芸術・エンターテインメント部門が回復途上にあった時期に行われた。

それでも、AIが多くの職業の前提を揺さぶる時代に、この結果は無視できない含意を持つ。

AIによる失業がベーシックインカムの議論を加速させていることは、もはやニュースではない。OpenAIのサム・アルトマンが基本所得実験に関わり、日本でも井上智洋氏が『AI時代の新・ベーシックインカム論』を著し、政治的論点として浮上している。議論の中心は常に「現金を配れば人は働かなくなるのか」だった。

今回の結果が示唆するのは、その問いの立て方そのものが粗いということだ。問うべきは「働くか、働かないか」ではない。「どんな仕事に時間を使うか」だ。

生活費のために嫌々続けていた仕事を減らし、本来やりたかった仕事に時間を移す。それを「働かなくなった」と数えるか、「働き方が変わった」と数えるかで、政策の意味は大きく変わる。

アーティストたちにとって月1000ドルは、休暇でもサボりの口実でもなかった。自分が価値を感じる仕事のための時間を買う原資だった。

研究は限定的だ。長期追跡もできていない。支給が終わったあと、彼らがどうなったかはまだわからない。

重要な教訓は、仕事は一つのものではない、ということかもしれない。月々の現金給付は、ある種の労働を減らし、別の種類の労働を増やすことができる。

それでも一つだけ、はっきりしたことがある。給料が出る仕事と、出ない仕事。生きるための仕事と、生きがいのための仕事。それらが同じ「働く」という言葉で括られてきたこと自体が、もしかしたら問い直されるべきなのかもしれない。

AIが創作の領域に入り込み、人間の労働の意味そのものが揺らぐとき、今回の小さな実験は意外な角度から光を当てる。お金で買えるのは、収入だけではない。時間と、その時間に何をするかの選択肢だ。


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