ニコン、価格でASMLに挑む露光装置の逆襲
かつて世界の露光装置市場を支配した日本メーカーが、「安さ」という武器で再び戦場に立とうとしている。ニコンの新社長・大村泰弘氏は日本経済新聞の取材に対し、ArF液浸露光装置をASMLより安価に提供して顧客を奪う方針を明言した。「自前で作る部分が多く、コスト競争では有利だ」。
かつて世界の露光装置市場を支配した日本メーカーが、「安さ」という武器で再び戦場に立とうとしている。ニコンの新社長・大村泰弘氏は日本経済新聞の取材に対し、ArF液浸露光装置をASMLより安価に提供して顧客を奪う方針を明言した。「自前で作る部分が多く、コスト競争では有利だ」。光学技術者として露光装置の開発を主導してきた大村氏の言葉には、技術屋としての確信がにじむ。
860億円の赤字から始まる再出発
この宣言が出てきた背景を理解するには、ニコンがいま置かれている状況を直視する必要がある。
2026年3月期、ニコンは860億円の最終赤字を計上した。過去最悪の数字だ。主因は2023年に買収したドイツの金属3Dプリンター大手SLMソリューションズにかかる906億円の減損損失。だがそれだけではない。半導体露光装置の販売も低迷が続いている。2024年3月期に11台出荷したArF液浸露光装置は、2025年3月期の最初の3四半期でゼロ。文字通りのゼロだ。
4月に社長に就いた大村氏は、就任時の記者会見でニコンの状況を「非常に厳しい」と率直に語っている。そのうえで投資の最優先先として真っ先に挙げたのが、自身が最も長く携わった半導体露光装置だった。
ASMLの支配と、ニコンが狙う隙間
露光装置市場の現実は残酷だ。ASMLが全体のシェア8割超、ArF液浸に限れば9割以上を握る。EUV(極端紫外線)露光装置に至っては100%の独占。2025年、ASMLはEUV装置48台、ArF液浸DUV装置131台を出荷し、売上高は327億ユーロ(約6兆円)に達した。受注残は388億ユーロ(約7兆2000億円)。桁が違う。
だがニコンが狙うのは、ASMLが「完全に」支配しているわけではない領域だ。
| ASML | ニコン | |
|---|---|---|
| ArF液浸 シェア | 9割超 | 数% |
| 2025年 出荷 | EUV 48台 DUV 131台 | ArF液浸 3Q連続ゼロ |
| 売上高 | 327億ユーロ (約6兆円) | 6771億円 |
| 最終損益 | 96億ユーロ (約1兆8000億円) | △860億円 |
| ArF液浸 装置単価 | 推定 約131億円 | 非公開 (安価を表明) |
3nmの最先端チップでさえ、パターニング工程の大半はArF液浸で行われる。EUVが担うのは最も微細な層だけで、残りの数十ステップはDUV装置の仕事だ。そしてこの市場では、ASMLの先端ArF液浸装置は1台あたり推定で約8250万ドル(約131億円)前後とされる。安くはない。ファウンドリやメモリメーカーにとって、同等の仕事ができるなら安い選択肢は魅力的に映る。
ニコンの大村社長は、米国やアジアの大手半導体メーカー数社と新規のArF装置受注に向けた協議を進めており、「発注に近い段階にある」と明かした。
「互換性」という現実的な戦略
価格だけでは客は動かない。ニコンが打ち出したもうひとつの切り札が、ASML装置との「互換性」だ。
これまでニコンの装置には致命的な弱点があった。レンズの設計思想がASMLと異なるため、ASMLの装置用に作ったフォトマスク(回路の原版)をニコン機に持ってくると、転写パターンが反転してしまう。顧客はニコンに切り替えるためだけに専用マスクを用意しなければならず、これが最大の参入障壁になっていた。
2028年度に投入予定の次世代ArF液浸装置プロトタイプ「S6xx」(NA=1.35)は、この壁を壊すために設計された。ASMLのフォトマスクとの互換性を追求し、さらにASML機と同じ設置スペースに収まるよう小型化も進める。顧客にとっての導入障壁を徹底的に下げる構えだ。
「自前主義」のコスト優位性
ニコンが価格で勝負できると踏む根拠は、製造体制の違いにある。
ASMLはドイツのツァイスから光学系を調達し、光源メーカーの米サイマーを2013年に買収するなど、世界各地から技術を集約する分業型のモデルで成長してきた。この「オープン・イノベーション」こそがASMLの躍進を支えた原動力だが、裏を返せばサプライチェーンが複雑でコスト構造も重い。
対するニコンは、レンズをはじめとする主要部品を自社で製造する垂直統合型だ。かつてはこの「自前主義」がASMLに後れを取る一因になったが、価格競争では逆に武器になる。大村氏が「コスト競争では有利だ」と言い切る背景がここにある。
本当に客は戻るのか
ニコンの戦略に対する最大の疑問は明快だ。価格だけで、一度離れた顧客は本当に戻るのか。
ニコンのArF液浸事業はかつてインテルに大きく依存し、受注の約8割をインテルが占めていた時期がある。だがインテルは自社製造の不振で設備投資を縮小し、ニコンの最大の後ろ盾が消えた。ASMLはその間も長期的な研究開発パートナーシップとデュアルステージ技術で顧客を囲い込み、リードを広げ続けてきた。
半導体製造装置は買って終わりではない。プロセス開発、保守サポート、ソフトウェアのアップデート、そして次世代装置へのアップグレードパスまで含めた長期的なエコシステムが問われる。ASMLが築いたこの「粘着性」を、価格と互換性だけで切り崩せるかは未知数だ。
ただし、ニコンには追い風もある。AI需要の爆発で露光装置の供給が逼迫しており、ASMLの巨大な受注残が物語るように、半導体メーカーは装置の納期に苦しんでいる。「1社に依存するリスクを下げたい」という顧客心理は確実に存在する。大村氏はまさにその点を突いている。
日本の露光装置に残された選択肢
ArF液浸を手がけるのは世界でASMLとニコンの2社だけだ。キヤノンはナノインプリントリソグラフィ(NIL)やArFドライ方式など独自路線を歩んでおり、ArF液浸には参入していない。つまりニコンは、ASMLに対する唯一の代替選択肢という立場にある。
ニコンがEUVの開発を事実上断念してから十数年。最先端の微細化競争では勝負にならないことを、ニコン自身が最もよく理解している。だからこそ「勝てる土俵」で戦う。ArF液浸という成熟した技術領域で、価格と互換性という実利で勝負する。2028年度のプロトタイプ出荷が、その成否を占う最初の試金石になる。
参照元:Nikon weaponizes lower prices to break ASML's lithography monopoly