45億円のAI代理戦争、決着がついた
マンハッタンの民主党予備選に、AI業界の対立する両陣営が合わせて約45億円を注ぎ込んだ。負けたのは標的にされた候補だけではない。金を出した側も、勝利宣言ができずにいる。
結果と、その奇妙な静けさ
現地時間6月23日夜、AP通信がニューヨーク第12選挙区の民主党予備選の当選確実を出した。勝者はマイカ・ラッシャー(Micah Lasher)氏。開票率94%の暫定結果で得票率39%、次点のアレックス・ボレス(Alex Bores)氏が35%、ケネディ家のジャック・シュロスバーグ氏が約11%で続いた。
34年間この選挙区を代表してきたジェリー・ナドラー下院議員の引退に伴う後任選びだ。ラッシャー氏はナドラー氏本人、キャシー・ホークル州知事、マイケル・ブルームバーグ元ニューヨーク市長という民主党の主要人物から支持を得ていた。ブルームバーグ氏は約1000万ドル(約16億円)をラッシャー氏を支持するPACに投じている。
だがこの選挙を全米の注目の的にしたのは、ラッシャー氏の勝利ではない。ボレス氏をめぐるAI業界の代理戦争だった。
約45億円が一つの選挙区に集中した理由
ボレス氏は元パランティア社員のコンピュータ科学者で、ニューヨーク州のAI安全法「RAISE法」の主要提案者だ。2025年12月にホークル知事が署名したこの法律は、大手AI企業に安全プロトコルの公開と重大インシデントの72時間以内の報告を義務づける。米国の州法としては最も踏み込んだAI規制の一つとされている。

この法律が引き金になった。OpenAI共同創業者のグレッグ・ブロックマン氏、パランティア共同創業者のジョー・ロンズデール氏、ベンチャーキャピタルのアンドリーセン・ホロウィッツ。彼らが出資するPACネットワーク「リーディング・ザ・フューチャー」(Leading the Future)は、傘下のシンク・ビッグPACを通じてボレス氏への攻撃広告に800万ドル以上(約13億円)を投じた。
対抗して動いたのがAnthropicだ。同社は「パブリック・ファースト・アクション」に2000万ドル(約32億円)を寄付した。その傘下PAC「ジョブズ・アンド・デモクラシー」がボレス氏の防衛に回り、1500万ドル以上を支出したとされる。暗号資産企業リップルの共同創業者クリス・ラーセン氏が資金を出した「ユー・キャン・プッシュ・バック」も330万ドル超を投入。さらにOpenAI社内から自社幹部の政治資金に懸念を持つ社員の声が上がり、技術者や労働組合が支える「ガードレールズ・アライアンス」も投票の5日前に参戦した。
| PAC名 | 支出額 | 割合 |
|---|---|---|
| ボレス攻撃(規制反対派) | ||
| シンク・ビッグPAC | 800万ドル以上 | 21% |
| ボレス支持(規制推進派) | ||
| ジョブズ・アンド・ デモクラシー | 1500万ドル以上 | 38% |
| ユー・キャン・ プッシュ・バック | 330万ドル超 | 8% |
| DREAM NYC | 230万ドル超 | 6% |
| ガードレールズ・ アライアンス | 約26万ドル | 1% |
| ラッシャー支持 | ||
| ブルームバーグPAC | 約1000万ドル | 26% |
ボレス氏の賛否だけで約2800万ドル(約45億円)。外部支出の総額は連邦選挙委員会(FEC)の記録で3900万ドル超(約63億円)に上り、下院予備選としては史上2番目の規模になったとAdImpactが集計している。
誰も勝てなかった戦争
ボレス氏は負けた。だが800万ドルを費やして彼を攻撃したリーディング・ザ・フューチャーは、勝利のアピールを避けた。取材に対して返したのは、組織の一般的な方針声明だけだった。
理由はある。攻撃広告がボレス氏の知名度を押し上げ、有力メディアが次々と特集を組み、エズラ・クライン(Ezra Klein)氏のポッドキャストにも出演するなど、むしろ全米的な注目を集めた。世論調査で一時はラッシャー氏と横並びまで浮上した。リーディング・ザ・フューチャーの攻撃がなければ、8名の候補がひしめくこの予備選でボレス氏がここまで存在感を示したかは疑わしい。
一方、ボレス氏を守るために2000万ドル以上を費やした規制推進側も、目的は果たせなかった。彼らが連邦議会に送り込みたかったRAISE法の主要提案者は、4ポイント差で予備選を落とした。
この選挙で一番の皮肉は、その先にある。勝ったラッシャー氏は、RAISE法の共同提案者だった。規制反対派が全力で潰そうとした法律に賛成した候補が、当選した。当選確実が出た夜、ラッシャー氏は支持者に向けてこう語った。「この選挙区の勝敗にこれほど関心を寄せた2つの大手AI企業に伝えたいことがある。子どもの安全に関しては誰の指図も受けない」と。
金で買えなかったもの
ラッシャー氏が勝った最大の要因は、AI代理戦争の外にいたことだ。ナドラー氏の元補佐官であり、ホークル知事の政策責任者だった経歴を武器に、地区のための実務能力を訴えた。ブルームバーグ氏の資金で打った広告は、移民政策やトランプ政権への対抗姿勢を前面に出し、AI規制の話題には深入りしなかった。ボレス氏とリーディング・ザ・フューチャーが派手に殴り合っている横で、ラッシャー氏は地元の支持基盤を固めていた。
ここから見えるのは、AI業界の金が「選挙を動かせない」という単純な話ではない。3900万ドルの外部資金は確かに選挙の焦点を変えた。ボレス氏の名を全米に知らしめ、AI規制を下院選挙の争点に押し上げ、業界内部の亀裂を誰の目にも見える形にした。だが投票結果に対しては、金を出した側が期待したほどの効果を持たなかった。
ピュー・リサーチ・センターの最新調査では、AIが今後20年で社会に良い影響を与えると考えるアメリカ人はわずか16%にとどまる。ギャラップの2025年調査でも80%がAI開発のペースを落としてでも安全規制を支持していた。世論は規制寄りだ。だが今回の結果を見ると、争点としてのAI規制だけでは票は動かない。有権者が選んだのは、AIの話題ではなく、地元の実績だった。
前例として残るもの
リーディング・ザ・フューチャーは、これまでの21のレースで支援候補の敗退が1件だけと高い戦績を誇る。だがその数字にはボレス氏のような「攻撃対象」のケースは含まれていない。攻撃広告が逆効果を生んだ今回のケースは、同じ手法を他の選挙区に展開しようとする際の警告になる。
一方で、規制推進側にとっても楽観はできない。2000万ドル以上を投じて守ろうとした候補が、結局は負けたのだ。この選挙が残した教訓があるとすれば、AI規制は関心を集められても、それだけで票は動かないということだろう。
確実なのは、この選挙が2026年の中間選挙に向けた「テストケース」として記録されることだ。連邦レベルでのAI規制は停滞が続いている。トランプ政権は州法を越える連邦一元化を掲げているが、議会での立法は進んでいない。その空白を埋めようとする州法と、それを潰そうとする業界の金が、今後も各地の選挙で衝突する。
ラッシャー氏は圧倒的に民主党優位のこの選挙区で、11月の本選挙でも勝利が確実視されている。RAISE法の共同提案者が連邦議会入りする。規制反対派がボレス氏を標的にした代償は、決して小さくない。
参照元
NBC News — New York Democrat Micah Lasher wins House primary that drew big spending from AI groups
他参照
Gothamist — Micah Lasher wins crowded Democratic primary for Manhattan U.S. House seat
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