Microsoft、重要製品の暗号を2029年までに量子耐性へ移行
量子コンピュータが既存の暗号を破る日は、もう「遠い将来」ではない。Microsoftが現地時間6月30日、重要な製品とサービスの暗号を2029年までにポスト量子暗号(PQC)へ切り替えると発表した。同じ6月にホワイトハウスも大統領令で連邦政府の移行期限を設定しており、PQCは備えの段階を終えて期限つきの実装作業に入った。
2029年という期限の意味
Azure CTOのマーク・ルシノビッチ(Mark Russinovich)氏が公式ブログで発表した。Microsoft Quantum Safeプログラム(QSP)のタイムラインを前倒しし、重要な製品とサービスを2029年までにPQCへ移行する。PQCへの対応要件は、同社のセキュリティ強化プログラムセキュア フューチャー イニシアティブ(SFI)にも組み込まれる。
従来、Microsoftは組織にPQCへの備えを促しつつも、具体的な移行期限は示していなかった。今回初めて年限を切った。
Microsoftだけではない。6月に入ってから、PQCをめぐる期限の設定が各所で同時に動いた。
ホワイトハウスは6月22日、大統領令14409に署名した。連邦政府の高価値資産について鍵交換を2030年末、デジタル署名を2031年末までにPQCへ移行するよう義務づけている。従来の目標は2035年であり、最大5年の前倒しになる。
フランスの国家情報システムセキュリティ庁ANSSIも6月16日、2027年からPQC未対応のセキュリティ製品の認証を停止すると発表した。Cloudflareは4月の時点で、Googleの研究結果を受けて完全移行目標を2029年に前倒ししている。
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2024年8月 NIST、PQC最終標準を公表 FIPS 203/204/205の3規格を最終標準として公表 2026年4月 Cloudflare、完全移行を2029年に前倒し Googleの量子リソース見積もり下方修正を受けて決定 2026年6月 ANSSI・ホワイトハウス・Microsoftが相次ぎ期限を設定 ANSSI: 2027年からPQC未対応製品の認証を停止 ホワイトハウス: 大統領令14409で連邦政府に移行義務 Microsoft: QSPの移行期限を2029年に設定 2027年 ANSSI、PQC未対応製品の認証を停止 フランス政府機関・重要インフラ向け製品が対象 2029年 Microsoft重要製品・Cloudflare完全移行の期限 Microsoft Quantum Safeプログラムの目標年 2030年末 米連邦政府、鍵交換のPQC移行期限 大統領令14409による義務。契約業者にも適用 2031年末 米連邦政府、デジタル署名のPQC移行期限 従来の目標は2035年。最大5年の前倒し |
テック企業と政府の双方から、ほぼ同じ時期に2029年という数字が出てきている。
「何が変わったのか」にMicrosoftは答えていない
Microsoftが今回示した移行の優先領域は3つある。通信中のデータを守るネットワーク暗号については、TLS 1.3への移行を前提条件と位置づけた。保存データに対しては、暗号アルゴリズムをアプリケーションの再設計なしに差し替えられる「暗号アジリティ」の構築を掲げている。そして最も複雑とされるのが、コード署名、証明書発行、鍵保護を含む暗号の信頼チェーンの刷新だ。
どれも方向性として新しいものではない。なぜ今なのか。
ルシノビッチ氏のブログでは、量子コンピュータの実用化が従来の想定より早まる可能性に繰り返し触れている。ただし、何がそう判断させたのか、具体的な技術的進展への言及はない。
Microsoftは6月2日のBuild 2026で量子プロセッサMajorana 2を発表している。自社の量子コンピュータ実用化目標も2029年だ。暗号の移行期限をそこに合わせるのは整合性がある。ただ、量子の研究開発部門と暗号のセキュリティ部門が社内でどこまで連動しているかは、外部からは見えない。
組織が直面する本当の課題
ルシノビッチ氏のブログで注目すべき指摘がある。多くの組織にとって最も難しいのは、PQCアルゴリズムの選定ではなく、自社のどこに暗号が使われているかを把握することだという。
アプリケーション、サービス、ネットワーク、ID認証、証明書、ハードウェア。暗号はあらゆる層に入り込んでいて、全容を把握できている組織はほとんどない。Microsoftが「暗号資産のインベントリから始めよ」と繰り返し推奨する理由はここにある。
ホワイトハウスの大統領令は、連邦調達規則の改正を通じて政府契約業者にも2030年末のPQC準拠を求める方針を含む。米国政府と取引のある企業は、直接的に移行期限を負うことになる。その影響は日本企業にも及びうる。
NISTは2024年8月にPQCの最終標準3本(FIPS 203、204、205)を公表済みで、アルゴリズムの選定は終わっている。移行に必要な技術的基盤は揃った。残っているのは、どこから手をつけるかという実装の問題だ。
「まだ来ない」という議論は、もう移行期限の延長材料にならない
PQCの議論には常に、量子コンピュータの実用化時期をめぐる懐疑論がつきまとう。4月には暗号学者のマシュー・グリーン氏が、2029年までにも2035年までにも実用的な量子コンピュータは登場しないほうに賭けると公言した。
だが今回の一連の動きは、その議論とは別の次元にある。政府が調達要件として期限を設定し、認証機関が非対応製品を排除し、クラウドプロバイダーが自社インフラの移行スケジュールを確定させた。暗号の入れ替えには年単位の時間がかかる。期限の根拠は量子の到来予測ではなく、移行作業の所要時間だ。
今日暗号化されたデータが将来解読されるリスク、いわゆるharvest now, decrypt later(今盗んで後で解読する)への備えに、量子コンピュータの完成を待つ猶予はない。データを盗まれる組織にとって、脅威はすでに始まっている。
Azure上に構築された無数のサービスの暗号基盤が、2029年までに変わる。その影響はMicrosoftの製品を使うあらゆる組織に及ぶ。
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