3.3億ポンド払って、NHSに残るのは一行のコードも無い
英国政府がパランティアとのNHSデータ基盤契約を途中で打ち切るかもしれない。3.3億ポンド(約708億円)を投じた契約で、終わった後にNHSの手に残る成果物がソフトウェアも知的財産権もゼロという構造が、ようやく議会で問題視されはじめた。
議会で公然と出た「打ち切り」の言葉
何が起きたかを一言で言えば、政府の医療担当の政務次官が国会討論の場で「契約解除のオプションはテーブルの上にある」と明言した、ということだ。契約延長の可否は2026年中に決断され、実際のブレイククローズは2027年2月。パランティア(Palantir)依存からの脱却が現実的な政治課題として動き始めている。
2026年4月16日、英国下院のウェストミンスター・ホールでNHSフェデレーテッド・データ・プラットフォーム(Federated Data Platform、以下FDP)をめぐる討論が行われた。ここで保健・社会福祉省の政務次官ズビル・アーメド(Zubir Ahmed)は、パランティアが手がけるFDP契約について、来春のブレイククローズで打ち切られる可能性があるとの認識を示した。健康イノベーション・患者安全担当の政務次官で、本人も現役の外科医だ。
アーメドの発言はこうだ。
私の北極星は、患者の安全と質、そしてもちろん費用対効果だ。ブレイククローズの時点で、より良い仕事ができる他のプロバイダーがいると評価されれば、当然それは検討され、再考されなければならない。
公式には中立的な物言いだが、政府の中枢で「パランティアを切る選択肢」が真剣に議論されていることが、大臣の口から正式に出た意味は小さくない。ここに至るまで、クリニシャン、労働組合、人権団体、医師会、超党派の議員らが数年にわたって声を上げ続けてきた蓄積がある。
「サブスクリプションだけが残って、ソフトウェアは残らない」
討論を主導したのは自由民主党のマーティン・リグリー(Martin Wrigley)議員だ。リグリー議員は、契約の条件そのものに対して根本的な批判を突きつけた。
現在の契約は、サブスクリプション終了後に何も残らないサブスクリプション・サービスを提供する。3.3億ポンド以上を費やしたあと、ソフトウェアも、改善も、知的財産権も残らない。特別に書かれたソフトウェアと知的財産権のすべては、契約書によればサプライヤー(パランティア)に帰属する。
この告発の恐ろしさは、金額そのものではなく「契約が終わった翌日、NHSの手元に何が残るか」という一点に集約される。リグリー議員によれば、答えは一行のコードも残らない。パランティアのプラットフォームに接続するためのデータ収集ソフトウェアも、各NHSトラスト(地域の病院運営組織)の内部システムと繋ぎこむための特注コードも、すべて著作権者はパランティアだ。契約を終わらせた瞬間、NHSはまたゼロから別の仕組みを構築することを強いられる。
永続的なロックイン。単一障害点。これが3.3億ポンドの買い物で手に入れたものの正体だと、リグリー議員は議会で断じた。
動かない、使えない、役に立たない──現場の声
金の話だけなら、まだ「痛いが仕方ない」で済ませる余地がある。だがリグリー議員の追及は、FDPが機能していないという別の事実にも踏み込んだ。
契約の初期3年で、パランティアは13のコア機能の提供を約束していた。このうち実際に納入されたのは3〜4機能にとどまる。しかも、そのどれもが部分的な実装でしかない。約200のNHSトラストがFDPへの参加を表明したが、実際に稼働しているのはおよそ半分。システムから恩恵を受けていると報告しているのはわずか4分の1だ。
リグリー議員は現場から届いたオープンレターを引用しながら、「パランティアは技術的に誤った選択というだけでなく、NHSユーザーは使い勝手がひどいと報告している」と述べた。別のレターでは「複雑怪奇で、使っていて士気が下がる」とまで言われている。NHSのデータ分析専門家たちは、FDPを超える能力を持つツールをすでに手元に持っていると訴えた。
つまり、3.3億ポンドは払った。機能は4分の1しか動いていない。使っている人は4分の1しか恩恵を感じていない。そして契約が終わっても何も手元に残らない。これが、リグリー議員が議会に並べた現時点の収支だ。
対して政府側は別の数字を並べる。アーメド政務次官によれば、2024年3月のゴーライブ以降、FDPは「すべてのターゲットを超過達成」しており、137のNHSトラストがプラットフォームを活用して恩恵を報告している。10万人以上の追加患者が手術を受けられるようになり、9万4000人近くががん治療の経路で支援を受け、7日以上の入院からの退院遅延は14%減った。節約効果は最大で£24億(約5151億円)と独立推計されている。これまでに投じられたのは£2.1億(約451億円)だ。
同じFDPを見て、リグリー側は「恩恵を感じているのは4分の1」と言い、アーメド側は「137トラストが恩恵を報告している」と言う。分母の取り方と「恩恵」の定義が違うだけで、どちらも嘘ではない可能性が高い。ただし、どちらの数字を読者に信じさせたいかでナラティブは大きく変わる。
| 論点 | リグリー議員(野党) | アーメド政務次官(政府) |
|---|---|---|
| 稼働トラスト | 参加表明200のうち稼働は半分 | 137トラストが活用中 |
| コア機能 | 13のうち実装は3〜4で部分的 | 全ターゲットを超過達成 |
| ユーザー評価 | 恩恵を感じるのは4分の1 | 10万人超が追加で手術を受けた |
| がん診療 | ー | 9万4000人を支援・診断時間7%短縮 |
| 退院遅延 | ー | 7日超滞在の退院遅延14%減 |
| 契約後の資産 | ソフトもIPも残らない | IPはNHS所有で移行可能 |
なぜパランティアだったのか、その秘密の会合
リグリー議員は討論の後半で、さらに背景に遡った。「2019年のボリス・ジョンソン、ドミニク・カミングス、そしてパランティア創業者兼会長のピーター・ティール(Peter Thiel)との秘密会合も、明らかにされなければならない」。
この会合は2019年8月28日、ダウニング街10番地で行われた。ジョンソン首相(当時)は議会の閉会手続き(プロロゲーション)で国内を騒然とさせた、まさにその日だ。1時間の会合は「プライベート」と分類され、大臣の公式面会記録には載らなかった。議事録も存在しない。ティールは保守党への献金者ではなく、米国籍なので英国政治に資金提供もできない。にもかかわらず、会合は「プライベート」扱いにされた。
そして翌2020年、パランティアはパンデミック対応を名目に、NHSからわずか1ポンドで最初の契約を受注する。そこから£6000万規模の連続契約に膨らみ、2023年に3.3億ポンドのFDP契約を勝ち取った。英国政府監査対象の公開書類でパランティアが保有する英国政府契約は、NHS以外も含めれば総額6.7億ポンド超にのぼる。
パランティアが政治的に論争的な企業であることは、もはや秘密でも何でもない。創業者のティールは過去に「自由と民主主義はもはや両立すると思わない」と書き、NHSを「英国民が病気になる原因」と評した。CEOのアレックス・カープ(Alex Karp)は今年、パランティアは「敵を恐れさせ、時には命を奪う」会社だと公言している。同社はイスラエル軍の監視活動や、米国のICE(移民・税関捜査局)による強制送還作戦にもテクノロジーを供給してきた。
そういう企業が、英国最大の医療機関が持つ患者データを繋ぐハブに座っている。これが政治的問題として扱われないほうが、むしろ不自然だろう。
「政治は嫌いだが、原則は死守」という大臣の綱渡り
興味深いのは、アーメド政務次官自身が「パランティアの政治思想のファンではない」と、保健大臣のウェス・ストリーティング(Wes Streeting)と同じ立場で公言していることだ。外科医としてのキャリアを持つ彼は、FDPそのものの価値を強く擁護する。「NHS FDPは異なるシステムに保持された健康情報を繋ぎ、生産性とアウトカムを改善する。診断経路を加速し、退院プロセスを合理化し、より協調的なケアを実現する」。
アーメド政務次官は、パランティアはデータ、製品、知的財産権を所有しておらず、NHSのデータを自社目的で使うこともできないと強調した。しかもベンダーロックインの解消は「明確に可能」だとまで言い切っている。一方でリグリーは、契約書には特別に書かれたソフトウェアの知的財産権はパランティアに帰属すると明記されており、そこにはデータ収集ソフトウェアも含まれると反論した。
両者の主張は、厳密には両立しうる。「データ本体」の所有権はNHSにあり、「データを流すための配管」の所有権はパランティアにある、という整理だ。だが問題は、後者を握られている限り前者を自由に動かせないという現実にある。家は自分の持ち物でも、配管のバルブが業者の手にあれば、蛇口をひねる権利は業者次第になる。
英国企業主権と、捨て切れない利便性のあいだで
討論のもう一つの軸は、英国が自国のテクノロジー能力を持つべきかどうかだ。リグリー議員は、契約更新時点を使ってパランティアのプラットフォーム拡大を止め、英国企業が代替を構築するための段階的な移行と再入札を行うよう大臣に要請した。科学研究担当大臣と首相が示した「主権的能力」の原則に沿ったものだ、と。
実際、FDP調達では英国企業クアンテクサ(Quantexa)がIBMと組んで入札しており、オラクル・サーナー(Oracle Cerner)も応札していた。落札したのがパランティア主導のコンソーシアムだったというだけで、選択肢がなかったわけではない。加えて、パランティアの処理エンジンはオープンソースのApache Sparkをベースにしている。同じSparkを使ったプラットフォームはDatabricks、Snowflake、Google Cloud、Clouderaなど他にも存在する。どこも今回の入札には参加していなかったが。
3月には科学担当のパトリック・バランス(Patrick Vallance)大臣が、ブレイククローズ後は主権的テクノロジー政策に沿った「異なるアプローチ」を約束していた。今回のアーメド政務次官の発言は、その流れのなかにある。契約延長を正式に判断するタイミングは2026年中。議論に残された時間は、実質10か月ほどしかない。
信頼という、いちばん測りにくい資産
リグリー議員が最後に強調したのは、数字でも契約書でもなく、もっと測りにくいものだった。
主要な問題は信頼だ。NHSの未来は、データのインテリジェントな活用と患者からの信頼にかかっている。AIを絡めた研究への一般市民の信頼を得るのは、どちらにせよ大変だ。ましてやパランティアのような会社がそれを統括するなら、なおさら難しい。
これは感情論ではない。医療データは本質的に、患者の自発的な協力なしには集まらないという構造的事実がある。医師に症状を話し、検査を受け、診療録に残すという行為は、最終的に「この情報は自分のために使われる」という信頼の上にしか成り立たない。システム設計の正しさと、そのシステムを誰が運営しているかという問いは、切り離せない。
契約延長の判断は2026年中、実際のブレイククローズは2027年2月に控えている。この数か月間の動きが、NHSのデータ基盤がパランティアと共に進むのか、別の道を歩むのかを決める。そしておそらく、英国がテクノロジー調達でサブスクリプションの罠にどう向き合うかの、他国にとってのケーススタディにもなる。
日本の病院情報システムも、特定ベンダーへの依存と更新費用の重さに長年悩まされてきた。海の向こうの話では、ないかもしれない。
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