AIで「上手くなる」ほど自分が消える、学生たちが書く違和感

AIで「上手くなる」ほど自分が消える、学生たちが書く違和感

「いい文章だし、いい成績も取れる。でも、なんかありきたり。誰でも書けたかもしれない、自分じゃなくても」。AIで磨いた自分の文章を見て、学生はそうつぶやいた。


「自分じゃなくてもいい」と感じる学生たち

カナダの大学・カレッジで、いまSTEM分野の学生たちのあいだに静かな違和感が広がっている。AI(人工知能)で文章を整えると、確かに上手くなる。成績も上がる。それなのに、できあがった文章を読み返すと「これは自分の声じゃない」と感じてしまう。

学術メディアのザ・カンバセーション(The Conversation)に、トロント大学(University of Toronto)オンタリオ教育研究所(OISE)の博士課程に在籍するヌルル・ハサン・モハマド(Nurul Hassan Mohammad)が記事を寄せた。自身のフィールドワークで繰り返し聞いたという学生の声を紹介している。技術的にはちゃんと書けている。でも「自分が書いたとは思えない」。この感覚が一過性のものではなく、複数の学生のあいだで反復していることが、彼の研究の出発点になっている。

KPMGカナダが2025年10月に公表した調査でも、この風景の前提となるデータが出ている。カナダの学生の73%がすでに学業で生成AIを使っており、前年の59%、2年前の52%から急速に伸びた。さらに半数近くが、課題を出されたとき「最初の本能としてAIに頼る」と答えている。手で書き始める前に、まずAIに投げる。そういう習慣が、世代単位で定着しつつある。

KPMGの調査は、3,804人のカナダ人成人を対象に、2025年8月15日から9月15日にかけて行われた。そのうち684人が大学・カレッジ・職業訓練校・高校の在籍者で、73%が学業で生成AIを利用している。
カナダの学生に何が起きているか(2025年KPMG調査)
指標 該当する学生の声 該当比率
利用率 学業で生成AIを使っている 73%
第一反応 課題を出されるとまずAIに頼る 45%
学習面の自覚 批判的思考力が低下したと感じる 48%
罪悪感 使うとカンニングしている気がする 57%
発覚への不安 使用が見つかるのが怖い 54%
教育への要望 学校でAIの使い方を教えてほしい 77%
※ KPMG in Canada「Generative AI boom among Canadian students raises dilemmas」(2025年10月9日公表)。3,804人のカナダ人成人を対象とした調査のうち、学生684人(大学・カレッジ・職業訓練校・高校)の回答に基づく。

ここで気になるのは、この73%という数字そのものよりも、その先にある学生自身の戸惑いだ。便利だ、成績が上がる、でも――この「でも」の正体を、ハサン・モハマドは「アイデンティティの問題」として読み解こうとしている。

書くことが「自分を作る」プロセスだった

そもそも書くという行為は、ただの作業ではない。考えを構造化し、論理を組み立て、自分の立ち位置を表明する。とくに大学やカレッジでは、書くことを通じて学生は「この分野でやっていける」という感覚を少しずつ積み重ねていく。

STEM分野ではこの構造がさらに強い。プログラムは特定のキャリアパスに直結しており、学生は技術者やエンジニア、研究者として「世の中で通用する自分」を、書くことを通じて試運転する。実験レポートひとつにも、その分野で通用する語り方、納得される論理の運び方、説得力のある結論の出し方がある。学生はそれを真似ながら、自分のものにしていく。

社会学や教育学の分野では、こうした営みを「アイデンティティ・ワーク(identity work)」と呼んできた。自分が何者であるか、どこに属するかを、行為や表現を通じて作り直し続ける作業のことだ。書く力を磨くこととは、書ける自分を作っていくことでもある。

ここに生成AIが入ってくると、この回路の真ん中に別の声が混じることになる。

「上手いけど、自分の声じゃない」

ハサン・モハマドが自身の研究でくり返し耳にしたのは、おおむね同じパターンの声だった。AIが出してくる文章は、文法的には強い。論旨もはっきりしている。それなのに「自分の声に聞こえない」。

「いい文章だし、いい成績も取れる。でも、なんかありきたり。誰でも書けたかもしれない、自分じゃなくても」

学生のこのコメントは、表面的には文体への不満に見える。だが背後には、もっと深い不安がある。自分の文章なのに、手応えがないという感覚だ。書いた本人すら、できあがったものに帰属意識を持てない。それは「これは私が書いた」と胸を張れるかどうかに関わる、自己認識の問題に近い。

問題は、ここで失われている「声」が、教師や採点者から見える形では問題にならないことだ。むしろAIで整えた文章のほうが、評価される。流暢で、構造がはっきりしていて、間違いも少ない。教育機関が暗黙のうちに「良い文章」と見なす基準に、AIの出力は驚くほどよくフィットする。

学生から見れば、AIに任せたほうが評価が上がる。でも、上がるほどに「自分が書いた」という実感は薄くなる。このねじれた成功体験が、若い書き手の足元を少しずつ削っていく。

同じAI出力を巡る、評価と自己認識の食い違い
観点 教師から見た評価 学生本人の感じ方
文章の
流暢で読みやすい 自分の声に聞こえない
論理
構成
明晰でしっかり通っている 誰でも書けたかもしれない
独自性 基準を満たしている ありきたりに感じる
書き手の
手応え
採点対象として完成している 自分が書いた実感がない
※ 評価軸は教育機関が暗黙のうちに「良い文章」と見なす基準を整理したもの。自己認識軸は研究者ヌルル・ハサン・モハマド氏のフィールドワークで、複数のSTEM学生から繰り返し聞かれた声に基づく。

AIが「良い文章」の暗黙の標準になるとき

ハサン・モハマドが警鐘を鳴らしているのは、ここから先だ。AIが整えた文章が「良い文章」の暗黙の標準になっていくと、学生は自分の能力を、自分自身ではなく道具のほうに置き始める。

うまく書けたのは、自分が書けるようになったからではなく、AIがうまく書いてくれたから。その感覚が定着すれば、AIを使った学生は「成功は自分のものではない」と感じ、AIを使わなかった学生は「自分は不利な戦いをしている」と感じる。どちらに転んでも、自己効力感は痩せていく。

国際機関のユネスコ(UNESCO)も、似た方向の懸念を示している。生成AIの普及は、知識がどう作られ、どう表現されるかの構造そのものを変えつつあり、人間の主体性とオリジナリティに関わる問題を提起している、と。AIが書きやすい文体・構造に世の中の文章が引き寄せられていけば、書き手の個性が出せる余地は徐々に狭くなる。

これは「AIで文章が画一化する」というよく聞く話の、もっと深い層にある問題だ。画一化が進む結果として、「私が書いた」という根拠が崩れる。誰が書いても同じなら、書き手の存在自体が問われる。

「成功は誰のものか」、能力の帰属先が移動する流れ
PHASE 1
AI普及前 — 書く力が自分を作る
学生は文章を通じて、論理を組み立て、その分野で通用する「自分」を試運転していた。書く力の伸びは、書き手自身の成長として帰属していた。
能力の所在 : 書き手
PHASE 2
AI普及中 — 評価と実感のズレが生まれる
AIで磨いた文章のほうが評価される。成績は上がる。だが書いた本人には「これは自分の声じゃない」という違和感が残る。評価軸と自己認識軸が逆方向にずれ始める。
能力の所在 : 書き手とAIの間で揺れる
PHASE 3
AIが暗黙の標準になった先 — 帰属が転倒する
「良い文章」の基準がAI出力に寄ると、学生は成功を自分ではなく道具に置くようになる。AIを使う学生は成功の真正性を疑い、避ける学生は不利を感じる。どちらに転んでも自己効力感は痩せていく。
能力の所在 : 道具側へ移動
※ The Conversation掲載のヌルル・ハサン・モハマド氏(トロント大学オンタリオ教育研究所 博士課程)の論考に基づき、AIが「良い文章」の暗黙の標準になることで起きる能力認識の転倒を3段階に整理。
学生は教えられる前に気づいている。「これは自分の声じゃない」「誰が書いてもいい文章になっている」と。違和感の言語化はまだ拙いが、感覚そのものは正確だ。

教育現場のポリシーは、まだこの問題に追いついていない。多くのカナダの大学が、AI利用について「開示すれば限定的に許可する」「捏造引用や偏見、プライバシーリスクには対処する」といった枠組みを敷き始めているが、ここで扱われているのは主に「不正行為としてのAI利用」だ。学生の声や帰属意識といった、より内面的な問題には踏み込めていない。

STEMと「ここに居ていいのか」という問い

この問題が特にSTEM分野で重く響くのは、もう一つ別の文脈があるからだ。カナダのSTEM分野では、ジェンダー、人種、先住民かどうか、社会経済的背景、移民か否かといった条件によって、参加者の構成が偏っている。「自分はこの世界に属していいのか」という問いを、もともと抱えやすい学生が一定数いる。

そういう学生にとって、書くことは生存戦略でもある。書きながら「自分はここでやっていける」と確かめる。研究室で、教室で、就職活動で、自分の存在を言葉に乗せて運ぶ。書くことで自分の場所を作る作業を続けてきた。

そこにAIが入り、彼らの文章を「より標準的に」整えていく。表面の評価は上がる。でも整えられた文章は、自分が場所を作るために積み重ねてきた声とは、別物に見えてくる。「これで成績は上がった。でも、ここに居ていいと思える根拠は、増えただろうか」。そう問わざるを得ない学生が、確実にいる。

AIで文章のバリアが下がることを、純粋に歓迎する声ももちろんある。書くのが苦手な学生、第二言語として英語を使う学生、特性のある学生にとって、AIは確かに門戸を広げる。だが同じ学生が、別の局面では「自分の輪郭が消える」感覚と向き合うことになる。同じ道具が、入口を広げ、入った先の自分を曖昧にする。


教育者にできること

ハサン・モハマドは、教育者ができる工夫として、いくつか具体的な方向性を提案している。学生に「AIをどう使ったか」を説明させる。AIが書いた段落と自分が書いた段落を並べて、トーン・明晰さ・推論の違いを議論させる。AIで磨かれた文章を、自分の思考が反映されるようにあえて書き戻させる。

どれも派手な改革ではない。ただ、評価の対象を「最終成果物」から「考えるプロセス」に少しずつずらす方向性で一致している。何を作ったかだけでなく、どう考え、どう自分を文章に置いたか。そこを見ようとする視点だ。

AIで書かれた文章を、自分の思考が透ける文章に書き戻す。解釈と不確かさの痕跡を残す。これらの小さなシフトが、学生が「何を作ったか」だけでなく「どう自分を仕事の中に置いたか」を見えるようにする。

これは教師の手間が増える話でもある。文章だけ見て採点するほうが、はるかに楽だ。だがAIが学生の文章を均していく時代に、最終成果物だけを見て評価することには無理が出てきている。書き手が誰なのかを問わない教育は、書き手が自分を見失う教育と紙一重になる。

AIを使いこなすことと、自分を保つこと

AIはもう、学生の生活から消えない。これからも生成AIは進化し、より自然な文体、より説得力のある構造、より人の声に近い出力をするようになっていく。違和感は、いまよりさらに気づきにくくなるかもしれない。

それでも、学生たちが「自分の声じゃない」と感じる感覚は、おそらく長く残る。技術的に上手いものが量産されるほど、そこに自分の手応えを残せるかどうかが、人にとっての中心的な問いになっていくからだ。

AIで上手くなることと、自分の声を保つこと。この二つは矛盾しないはずだが、放っておけば簡単に矛盾する。STEM教育がこれから問われるのは、学生にAIをただ与えるのではなく、AIを使いながら自分を見失わない方法を、一緒に探せるかどうかだろう。

書くことが「自分を作る」作業であり続けるために、教育の側がやれることは、まだ残っている。


参照元

他参照

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