スターマー辞任が残すテック政策の宿題

スターマー辞任が残すテック政策の宿題

キア・スターマー(Keir Starmer)首相が6月22日、辞任を表明した。2024年7月の地滑り的勝利からわずか2年足らず。英国は10年で7人目の首相を迎えることになる。スターマー氏がテック政策に残した遺産を検証する。


「AI超大国」を掲げた2年間

スターマー政権のテック政策は、一言でまとめるなら「壮大な計画書と、未完の法律」だ。

2025年1月、首相はマット・クリフォード(Matt Clifford)氏に委託した「AI機会行動計画」を発表し、50の提言すべてを受け入れると宣言した。国内のAI計算資源を2030年までに20倍にする。750万人にAIスキル研修を受けさせる。英国をG7最速のAI導入国にする。数字は大きく、意思は明確だった。

辞任のわずか2週間前、London Tech Week 2026の壇上でも勢いは衰えていなかった。AIチップ購入に4億ポンド(約850億円)を含む11億ポンド規模のAIハードウェア計画を発表。AMDが最大20億ポンド、ネビウス(Nebius)が17億ポンドの英国投資を表明し、英国初のソブリンAIフロンティアモデル「Lumen Sovereign」にはBT、HSBC、BAEシステムズなどが参画を発表した。投資を呼び込む力は確かにあった。

だが法律はどうか。

AI法が1本も通らなかった

労働党は2024年の総選挙マニフェストで、最も強力なAIモデルを開発する企業に「拘束力のある規制」を導入すると約束した。同年の施政方針演説(King's Speech)でも同じ文言を繰り返した。ところがAI法案は2025年中に姿を見せず、2026年5月の時点でも議会に提出されていない。

経緯は複雑だ。2025年2月、トランプ政権がAI規制に強い反対姿勢を打ち出したことで、英国はワシントンとの関係を優先しAI法案を棚上げした。着地したのは、AI安全研究所(AISI)を通じた自主的な事前テストという枠組み。前任の保守党政権と実質的に変わらない路線だ。

著作権問題も宙に浮いている。2024年12月に始まった著作権とAIの意見公募では、回答者の大半がAI学習へのライセンス義務化を支持した。にもかかわらず、2026年3月の報告書で政府は「まだ決められない」と結論づけた。クリエイティブ産業とAI企業の双方が、どちらに転ぶかわからない状態に置かれたままだ。

AI関連で成立した法律は、データ(使用及びアクセス)法(Data (Use and Access) Act 2025)だけ。それもAI著作権の透明性条項をめぐり、上院が5度にわたって条文を入れ、下院が5度にわたって削る綱引きの末、透明性条項なしで成立した。

EUはAI法を制定し、米国は規制緩和で突き進んだ。英国はその「中間」を目指すと繰り返したが、中間とは何も決めないことだった。

最後に打ち出した子ども保護

テック政策で唯一、実行段階に入ったのが子どものオンライン安全だ。辞任1週間前の6月15日、スターマー氏は16歳未満のSNS利用を禁止すると発表。TikTok、YouTube、Instagram、Facebook、X、Snapchatが対象で、来年春の施行を目指す。11万6000件を超える意見公募で90%以上が禁止を支持したことを背景に、「テック大手にはチャンスを与えたが、失敗した」と断じた。

さらにその前の週には、Apple・Googleに3カ月以内に子どものヌード画像の送受信をデバイスレベルで遮断するよう要求。従わなければ立法で強制すると通告した。

ただし先行するオーストラリアでは、同様の禁止措置に対して7割の保護者が「子どものアカウントはまだ残っている」と報告しており、実効性には疑問符がつく。法案を議会で通すのは次の首相の仕事になる。

EUとの距離感という難問

スターマー氏が残したもう一つの宿題が、EUとの関係だ。5月の地方選大敗後、首相は「英国を欧州の中心に」と宣言し、EUとの関係リセットを加速させた。

ところが政府内では対立が起きていた。科学・イノベーション・技術省(DSIT)は、EU AI法に寄せれば投資が逃げると警告し、外交筋はEUとの合意なしにはデータ相互運用やデジタル貿易で不利になると主張した。AnthropicやOpenAIがロンドンに大規模オフィスを構えたのは、EUの厳格な規制を避けられる英国の立ち位置があったからだ。ここでEU寄りに舵を切れば、せっかく集めた投資が逃げかねない。

この板挟みもまた、次の首相に丸ごと引き継がれる。

公共部門のデジタル化も道半ば

華やかなAI投資の裏で、政府のデジタル化は進んでいなかった。下院科学・イノベーション・技術委員会は6月、スターマー政権がぶち上げたデジタル化による450億ポンドの節約見通しを「過大な誇張」と断じた。2025年のMicrosoft共同調査によれば、公共部門でAIを試している組織は65%に達する一方、本格稼働は30%止まり。職員の41%がAI活用に不安を抱えている。パイロットから実装への壁を越えられないまま、首相が代わることになる。

同委員会はPalantir、AWS、Microsoftなど少数の米テック大手へのベンダーロックインも「国家安全保障上の脆弱性」だと警告した。ソブリンAIを掲げながら、公共インフラの実態は米企業依存が深まっていた。

次の首相への宿題

後継の最有力候補、アンディ・バーナム(Andy Burnham)氏はグレーター・マンチェスター市長としてバス運営のフランチャイズ化や地域交通の改革で実績を積んだ実務家だ。しかしテック政策については明確な立場を示していない。

引き継ぐ課題は山積している。AI法案を出すのか、出さないのか。著作権問題をどう着地させるのか。EUとの規制整合をどこまで進めるのか。16歳未満のSNS禁止を法律として成立させるのは誰の仕事になるのか。

スターマー政権テック政策の2年間
2025年1月
AI機会行動計画を発表
50の提言を全て受け入れると宣言
2025年2月
AI法案を棚上げ
トランプ政権の反規制姿勢を受け延期
2025年6月
データ法が成立
AI著作権の透明性条項は削除して可決
2026年3月
著作権報告書を公表
政府は「まだ決められない」と結論
2026年6月8日
11億ポンドAIハードウェア計画
London Tech Weekで4億ポンドのチップ購入を発表
2026年6月15日
16歳未満のSNS禁止を発表
法案の議会通過は次の首相の仕事に
2026年6月22日
辞任を表明
成立したAI関連法はゼロ

スターマー政権が残したのは、計画書と投資誘致の実績、そして法制化されなかった約束の数々だ。London Tech Weekの演説で首相は「英国は3つの選択肢がある。砂に頭を突っ込むか、ガードレールを外すか、第三の道を行くか」と語った。第三の道を選んだはずの英国は、2年間歩いた末に、まだ出発点に立っている。

参照元:Prime Minister's speech at London Tech Week 2026 - GOV.UK

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